豊薩軍記に記すところによれば、豊臣秀吉は自ら二十五万の大軍を率るて筑前国古所山を越え(実は八丁越を越えたのであらう)、天正十五年四月五日秋月種実の邑城荒平に入り、古所山を見るに、「岩壁高く聳へて雲親四に囲み、九折なる細道一條を登る事十余町然も岩角滑かにして谷深し。●徳田浩淳著作選集●全6巻完結●栃木県下野歴史物語歴史散歩古。実にも此山九州第一の嶮難にて、秋月一族及び隣国の者ども数万人相集て一支して見んと思ひしも理りなり云々」とある。洋書 附日本地図『The Far East 1898 Jan-July』1899年。秋月の要害斯の如くであればこそ黒田家封を分つに当り、長政最愛の三男長興をして此処に居城せしめたのも、実にもと思ひ合はされるのである。下着ぶんか論 ■ 鴨居羊子 サイン 解放された下着とその下着観。